観光・文化
文化
笛幾市の由来
笛幾は「ふえいく」と読みます。一般に、「幾」の字を「いく」と発音するのは語頭に位置する場合に限られ、語末につく場合には「き」と発音するのが一般的です。
笛幾は「ふえき」と発音する方が自然とされ「ふえいく」は大変に珍しい読み方であるとされています。これは、笛幾市が笛箆(ふえの)町と幾稲(いくな)町が合併してできた歴史に由来するとされています。
【補足:地名の変遷チャート】
縄文~平安 … 海辺「笛箆」、山裾「幾稲」
鎌倉~戦国 … 両村+幾稲城=在地領主支配
江戸 … 天河藩(藩庁2分制)
明治22 … 笛箆町+幾稲村 → 笛幾町
昭和29 … 市制施行 → 笛幾市
観光名所
幾稲自然公園
幾稲温泉郷
伝承
縄文時代(約7000~2500年前)
海岸の洞窟から出土した土笛を吹くと「海から骨のない魚の影が上がる」と恐れられ、笛を赤土で封じ籠に埋めたと伝わっています。
天河岳の噴気孔には“白い鹿人”が夜ごと下り、集落にクリを与えたという彫刻が貝塚層から発見されています。
平安時代(8~12世紀)
延喜年間、権現社の夜間護摩で“片翼の天狗”が出現し、護摩壇をくわえて聖峰頂に飛び去ったといわれています。翌朝、山頂湖「御鏡池」の水位が3尺下がっていたと記録されています。
鎌倉時代(12~14世紀)
合戦の夜、海上に「首だけの船頭」が浮かび敵陣の鬨を真似たため味方同士で誤射、戦が流れた――と軍忠状に記載されています。
室町時代(14~16世紀)
永享年間、天河岳が小噴火。降灰とともに「笛の音で人を惑わす黒面の童子」が里に現れ、灰を浴びた者がひと晩で髪を白くしたと『天河岳灰降記』にあります。
戦国時代(16世紀)
攻城の最中、幾稲城の井戸から“骨に翼を生やした鰹”が飛び出し空を旋回、城攻めの兵が総崩れになったといわれています。
この怪異以来、武家の葬儀で「勝男武士(かつおぶし)」を口にすると翼魚が舞い戻ると恐れられ、葬制から外された。
江戸時代(17~19世紀) ― 天河藩成立
元禄期、大火で笛箆の町並みが焼失。焼け跡から一夜で芽を出した黒竹が人の影を切ると噂され、藩が黒竹を全伐採されました。
しかし残根3株が動いて天河岳をよじ登り、翌朝には山頂湖が墨色に濁ったという怪談が『陰須磨随筆』に残ります。
明治時代(1868~)
1869(明治2) 廃藩置県で天河藩は天河県に吸収。
1889(明治22) 町村制施行。海側の笛箆町と山側の幾稲村が合併し、初めて「笛幾町」に。
1893(明治26) 聖峰麓に鉄道開通、笛箆港が国際貿易港に指定。
1910(明治43) 天河岳の地下熱利用で日本初期の地熱試験所が設立、研究員失踪事件が“影潜り”の都市伝説を生む。
大正~昭和
1923 関東大震災時、陰須磨海岸で“真夜中に波が逆巻いて沖へ流れた”という報告多数。後に引き波型の小津波と判明。
1945 終戦直前、海岸に正体不明の潜水艦残骸が漂着し「鉄の鰐」と騒がれる。住民が触ると皮膚が赤変する怪症例が出て封鎖。
高度経済成長期 学園都市・空港・工業団地が順次造成。山と海を背にした“箱庭都市”構想が具体化する。
平成~令和(現代)
2000年代 空港ターミナル拡張時、地下から縄文土笛が大量出土。夜間工事で笛の音が鳴るという通報が続き、九重の一族が御霊鎮めを行う。
2011 東日本大震災の際、陰須磨海岸沖で発光現象「七色の竜灯」が撮影されネットで拡散。博士はプラズマ説を提唱。
現在 市制施行から130年、若者文化+怪異スポット巡りでYuichubaチャンネル登録者が急増。デジタルと霊的伝承が交錯する“令和の笛幾譚”が進行中。
以上、史実風年表と怪異伝承を織り交ぜた「笛幾市=旧・天河藩」通史です。